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中庸の徳

  • 執筆者の写真: Akihiro Goto
    Akihiro Goto
  • 2022年5月6日
  • 読了時間: 3分

今年のGWは、自省の念に駆られることの多い出来事が続いた。コロナ禍が徐々に収束して日常が戻りつつある高揚感の中で、知らず知らずのうちに浮ついていた自分自身への戒めであったと真摯に受け止めたい。

後悔先に立たず

GW中の新幹線移動は、全国的な帰省のタイミングと重なったため、東京行きの新幹線は満席の状態であった。コロナ禍以前のGWの光景が戻ってきたかのようである。乗客全員がマスクをしていることを除いては。そんな中で、今回のコラムはいつもとは趣が異なり、私自身への猛省の意を込めて書いている。


いつか反省や後悔などすることのない立派な人間になりたいと願っているものの、反省や後悔がなくなることは、少なくともこれまでの経験上はない。


七十にして心の欲するところに従えどものりをこえず


孔子は15歳のときに立派な人間になることを決意して学問を始め、70歳にしてようやく、自分の思うままに言動しても道理に背かないものになった、という。つまり、孔子ですらそうなのだから、私のような凡人にとって後悔を繰り返す人生などは当たり前なのかも知れない。

過ぎたるは猶及ばざるが如し

今回の猛省の中で、この「中庸」という言葉を思い出した。元々、経書の中で孔子が説いた儒教の教えの一つであると言われているが、私はこの言葉を、菜根譚(さいこんたん)という中国古典の本で知り、非常に感銘を受けた。


極端に多すぎることは少なすぎることと同じくらいによくない、という意味である。有名な論語にある「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とほぼ同義であり、これも孔子が中庸の徳を説いた言葉としてよく知られている。


誰にでも、相反する二面性の部分があるが、私も、色々なことを慎重に捉えながら極端な言動を避ける控えめな自分と、一つの事に徹底的にのめり込むアクティブな自分の両方が混在している。どちらがよいというわけではなく、いずれも一長一短はあるわけで、むしろこの両方をうまく使い分けられることが重要だと思っている。「緩急自在」という熟語も私の好きなフレーズである。


今回の猛省は、アクティブな自分の度が過ぎたことに対する自己嫌悪である。度が過ぎてしまうたいていの場合は、自分の中の良くない部分から生じていることが多い。それは例えば、傲り、自信過剰、見栄、利己の追求、過度な潔癖、といったように。日頃より、謙虚に賢明でありたいと思っているはずなのに、自分には弱さや隙だらけであることを思い知らされたわけである。

中庸の徳を目指して

中庸の徳は、孔子ですら自分が納得のいく境地に至るまでに70年を要したほど、人間にとって簡単に達成することはできない最高の人徳だと言われている。程度をわきまえるだけのことだから難しいことではないように思えてしまうが、傲り、自信過剰、利己と言った人間の未熟な性が邪魔をし、それを想像以上に難しいものにしていることが自己の振り返りからもよく解かる。中庸というのは、この実践が難しいことを常に意識して、自分を律しながら向き合っていかなければならない永遠の教訓である。今回の出来事が、これに気付かせてくれた意味ある経験となってくれれば、価値ある失敗であったと言える。これからの生き方を変えていくことを誓いたい。

 
 
 

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