意識と無意識
- Akihiro Goto
- 2023年10月9日
- 読了時間: 7分
8つの意識領域が4段階で構成されている仏教の唯識論について考えてみた。

人の行動は、無意識に支配されている
哲学者であるフロイトが提唱した思想である。私たちが自ら認識できる「意識」は、心全体の氷山の一角でしかなく、海面下に存在する「無意識」が心の大部分を占めている。私たちの日常生活における意思決定や行動は、この無意識に支配されていることが多い。
この思想を知った時から、私もなるほどそうか、と感じている。自分の行動を振り返り、こうしたい、これはしてはいけないと意識していたのにできないことは数多い。「頭ではわかっていても。。。」というやつだ。
無意識は、自らの体験、欲望、動機、感情、といった様々な要素が過去に生きてきた年月の中で堆積して形成された自分が立つ土台のようなものだろうか。トラウマや自我というのも、この領域の住人である。
我思う、ゆえに我あり
フロイトの無意識論を提唱する300年ほど前、哲学者であるデカルトが残した言葉である。世の中に存在するあらゆる物事、物体も肉体も実は存在しないかも知れないし、自分が見ている姿ではないかも知れない。夢と現実ですら区別がつかなくなるときがある。ただ、これらを意識している自分が存在することは疑いようがないことであり、この自意識から全ての原理ははじまるとした。
ここで面白いパラドックスが存在する。デカルトは、自意識は疑う余地のない絶対的な存在であるとしたのに対し、フロイトは、我々は自分では認識できない無意識によって自意識が形成されているので、自意識は信用できないもの、自意識も疑わしいもの、となってしまい、デカルトが提唱した自意識が最初に信用できる哲学の原点であるという前提に難問を投げかけてしまったのである。
仏教の唯識論における八識説
唯識とは、全ての物事はただ心から現れた表象(イメージ)である、という仏教の思想である。全ての物事を成り立たせているのは、自分自身の意識であるという点で、私はいつもデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を連想してしまうが、この思想はむしろフロイトの無意識論に通じており、さらに深く意識の構造を探求しているところが非常に興味深い。もっとも、こちらは4世紀頃に大成された思想であるため、フロイトの無意識論よりもずっと前に誕生していることも驚きである。
人間の認識は、次の八種類から成り立っている。
・眼識(げんしき)
・耳識(にしき)
・鼻識(びしき)
・舌識(びっしき)
・身識(しんしき)
・意識
・末那識(まなしき)
・阿頼耶識(あーらやしき)
この8種類の認識を、2つの意識層と2つの無意識層からなる4段階に分けている。最も表面にある意識層は、最初に挙げた5つの認識であり、いわゆる五感と呼ばれる部分である(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)。意識とは言え、これは外部の刺激をどう感知するかというセンサーに相当し、センサーという言葉がなかった当時は「五根」と呼んでいた。
次に来るのが、「意識」であり、我々が日常的に意識だとみなしている領域である。言語を理解し、理性をもって考えたり行動したりする。ここまでの計6つの認識が、自分がその識の存在を自覚できる顕在意識の領域である。人間の意識が全て顕在意識でできていれば、頭でこうしよう、こうすべきだ、と考えた通りに行動することになるのだが、現実はなかなか難しい。その原因が、残りの2つの意識から成る潜在意識の領域の存在である。
潜在意識「末那識」:自分固有の潜在意識の中枢
3段階目に来るのが、7番目の「末那識(まなしき)」であり、これは過去の自らの体験、欲望、感情などが堆積された意識であるため、フロイトが提唱した「無意識」と同一であると私は考えている。別の言い方をすると、言語や理性では制御できない、衝動や情動として発現されるものであり、直感的に好き・嫌いを条件づけている潜在意識である。
唯識論では、過去の体験や感情は、1つも失うことなくこの末那識に蓄積されているとしており、これは大変興味深い。
この末那識が、我々の行動を左右していると言っても過言ではない。その意味では、自分をどういう人間にしているのか、人間としての本性の部分とも言える領域であると思う。
潜在意識「阿頼耶識」:個体・時間・空間を超越した集合的意識
4段階目の最も深いところにあるのが、8番目の「阿頼耶識(あーらやしき)」であり、これは個人の意識を超えて、人類共通、さらには世界がこれまで経験したことが全て蓄積されている海のようなものであるとのことだ。人が死ぬというのは、個体として形を保てなくなることであり、それは末那識が阿頼耶識へと吸収されていくことを意味しているそうだ。そこからまた個として立ちあがってくることもあり、これを「輪廻」と考えることもできる。
この集合的意識は、フロイトの思想にはない、仏教独特の思想と言える。そして、個の意識の先に人類共通のいわばパブリックな意識があり、それが人類の一人一人を繋ぎ合わせているとするならば、とても感慨深いものがある。我々は、人種や民族も違い、たとえ同じ民族であっても個人のルーツ(祖先)は全く異なり、成長する環境も大きく異なるにもかかわらず、どこか共通の価値観を持ち合わせていると思うことがある。いくら顕在意識の領域において教育や共通体験を積み重ねても、人類社会という大きな集合体を維持できるだけのコンセンサスを体得するのは難しいように感じる。
我々が阿頼耶識という集合的意識を持ち合わせていると考えることは、人とのつながり、社会における自分の存在を振り返る上で、とても心強く思えてくる。表面に現れている言動や価値観が異なり、あいつとは相容れない、好きになれないと思う他人であっても、根底ではつながっていると思えば、どこか分かり合える部分があるように思えてくるし、許せる気がする。
無意識の領域から変えていく
AIに代表されるように技術は飛躍的に進歩し、我々の生活は大きく変化している。SNSの台頭により、我々自身と他者との関係性は劇的に変わり、我々自身の心の在り様も大きく揺さぶられている。常に他人と比較され、自分の承認欲求に歯止めがかからなくなり、本来もっと自分自身の内側と向き合わなければならないのに、意識は周囲へと拡散し、嫉妬・強欲・怒り・焦りと言った負の欲望・感情ばかりが増幅される社会システムが日々拡大し続けている。これらの意識に憑りつかれてしまうと、多くの人が物的所有、贅沢によって自分の欲求を満たそうとしてしまう。そのおかげで資本主義は、その限界や問題を指摘されながらも全盛期を相変わらず謳歌している。
我々は、意識的に無意識の自己に目を向けなければならないと思う。無意識と言っても、その根源は毎日の自分の行動や思考の積み重ねであるから、ここに因果が必ず存在しているはずである。つまり、無意識をリアルタイムにコントロールすることはできないが、自分はどうありたいのか、将来どうなりたいのか、という問いに対し真摯に向き合って日々の努力を繰り返すことが「末那識」の中枢を形成していき、それが自分の未来を支配することになるのであろう。
仕事人としての、自分のこれからの方向性
新しい技術、新しい方法論・ノウハウが出てくる度に、How To 本が出回り、メディアは騒ぎ、それを急いで習得しなければビジネス競争から取り残されてしまうという焦燥感に駆り立てられることは日常茶飯事である。もちろん、新しい知識やスキルを獲得しようとする姿勢と努力は大切である。しかし、我々は確実に年を重ねていき、新しいことを獲得するための能力や時間が少しずつ減っていくのは誰にも回避できない現実だ。ならば、我々がこれまで積み重ねてきた経験が蓄積されている末那識にむしろ注目し、この末那識をよりクオリティ高いものにしていくことに”意識的に”取り組むことで、自分ならではの人間的価値を高められるのではないかと思う。末那識は、自分自身ですら言語化できない無意識の資産であるから、他人が容易に模倣できるものではない。究極の暗黙知といったところであろうか。
今後、どうやって自分自身のキャリアを成長させていくのか、価値を高めていくのか、不安で悩まない時はない毎日の中で、この仏教の唯識論の教えを知って、少しだけ方向性が見えてきたような気がしている。
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