失われた30年の終わらせ方
- Akihiro Goto
- 2023年1月30日
- 読了時間: 5分
最近、この言葉をよく耳にする。これまでも「失われた10年」「失われた20年」という言葉がささやかれていた。我々は「失われた40年」という言葉を口にしない未来を迎えることができるのだろうか?

失われた30年はいつから?
失われた30年とは、バブル崩壊後の90年代初頭から現在までの期間を指す。 この30年間は高度経済成長期や安定成長期のような成長が見られず、経済の低迷や景気の横ばいが続いている。諸説あるが、それまで進行していた資産価格や地価の上昇が止まり、バブル崩壊が顕著となった1991年から始まったとされることが多い。今が2023年、もう32年が経過し、未だに出口を見つけられていない日本経済は、さらに記録を更新し続けているわけだ。
1991年と言えば、私が大学を卒業して社会人になった年である。世間からはバブル世代と呼ばれるが、正確には社会人になった瞬間にバブルが崩壊していたため、社会人としてバブルを謳歌できたわけではない。2007年に公開された「バブルへGO!!」という映画では、バブルを阻止するために、タイムマシンでバブル絶頂期へ遡るのだが、それが1990年3月という設定である。
当時私は大学3年生であった。東京に憧れて、高校卒業とともに地方を離れ、東京で(正確には近隣県であるが)大学生活を始めた自分にとって、当時がバブルであるということは比較する術を持ち得ていなかったので意識したことはなかった。1991年にバブルが崩壊したと言っても、その年は社会人一年目であるから過去と比べようもないし、不動産や金融資産も一切持ち合わせていないので、社会がネガティブな方向へ変化したという実感も実害もなかった。当時は、今や人気職種となったコンサルティング業界における日本での黎明期であり、私は偶然にも(と言っても過言ではない)小さなコンサルティング会社(今では大手コンサルファームの一角として君臨)に就職することができ、総じて順調にキャリアを重ねてくることができたため、何かが「失われている」という感覚はなかった。
中国と日本の選手交代の記憶
私は2007年から10年間、中国に滞在していた。2010年のある日、中国国内線の飛行機の中で隣の乗客が手にしていた新聞のトップページに中国のGDPが日本を抜き、とうとう世界第2位の経済大国になったというニュースが大きな見出しで報じられていたことを今でもよく覚えている。2010年といえば上海万博が開催された年であり、その2年前の2008年には北京オリンピックがあった。まさしく中国が最も経済成長に湧いていた時代である。当時の中国の街の雰囲気が、どこか自分が若い頃に経験したバブルの頃に似ており、何か嬉しく懐かしく思ったものだ。
2010年当時、日本の人口は約1億2800万人、中国はその10倍の約13億4000万人、従ってGDP総額で中国が日本を抜いても一人当りGDPでは圧倒的な格差があったため、私自身は、中国の経済成長は認めるものの日本の衰退という受け止め方はなかった。むしろ、まだまだ日本と中国の間には大きな格差があるなというくらいに思っていたのが正直なところだ。
ところが、中国は日本を抜き去った以降も貪欲に成長を加速させる一方で、日本は見事に停滞を続けているではないか。2011年以降は、それまでの「失われた20年」に続く10年であるわけだから、直近10年間は「失われた20年」を取り返すどころか、さらに多くのものを失ってしまったのである。

(出典:世界経済のネタ帳)
コロナによる3年の喪失年数の積算
2020年2月のコロナ禍の始まりからちょうど3年が経過した。ようやくコロナ禍を抜け出す兆しが見えつつあるものの、諸外国と比べると、日本の回復の遅れは否めないと言える。2020年、2021年の2年間は、世界的にどの国においてもコロナによる経済と社会の停滞が余儀なくされたので日本だけが「失われた」わけではないと言えるのだが、2022年に入ってからは回復のペースは国によって徐々に差が広がってきた(まるでマラソン後半で各ランナーの距離が開くように)。この「コロナ克服マラソン」で失速気味の日本にとって、2023年はいかにペースを挙げるかが課題であるにもかかわらず、今の政府の対応からは、残念ながら上位へ這い上がろうという気概を感じられない。3年の喪失が、4年にならないことを切に願っているのは私だけではないだろう。
バックキャスト思考で、日本を脱皮させる
最近、失われた30年の犯人探しの議論をよく見かける。規制緩和の後れ、経済対策の問題、金融政策の問題、教育問題、企業の問題、政治、そもそもの日本人の国民性、、、挙げればきりがない。
過去を振り返ることは大事なことであるが、その延長線上で考えていても、「失われた〇〇年」の話に終止符を打つことはできないと思う。なぜなら、結局のところ「これは難しい問題ですね」とか「少しずつ改善していきましょう」とか、はたまた「もう少し様子を見ましょう」というような、いずれもあまり期待できないような発想しか生まれないからだ。
なので私は、バックキャスト思考(=過去の実績や現状や課題から未来を考えるのではなく、「ありたい姿/あるべき姿」を描いたうえで、そこから逆算して“いま何をすべきか”を考える思考法)へ大きく舵を切るべきだと考えている。次の10年間は、過去の連続ではなく、10年先のありたい姿へ向けて残された10年間であるということ。そう考えれば、これまでの「失われた30年」のことは振り返っている暇などなく、次の10年間をどうするかに早く視線とギアをシフトする必要がある。
バックキャスティングのデメリットもある。先の未来を起点とするため、その未来の実現が確実ではなく、予測を誤ると計画や施策が無駄になるリスクがあるという点だ。ただ、未来において我々はどこへ到達したいのか?その目標設定がなければ、そもそも計画も施策も考えようがなく、何も始まらない。走りながら、軌道修正をすればよい。また、最近のAI技術の進歩然り、以前に比べると10年先の未来というのはかなり正確に予測できるようになっているのではないか。
確実なシナリオが一つある。もし日本がこのまま、これまでの30年間の延長線上に身を置き、既得権益に囚われてゲームチェンジができず、相変わらず手をこまねいているのだとしたら、10年後の流行語大賞には「失われた40年」がノミネートされていることだ。
そう、ドイツの哲学者ニーチェが言ったように「脱皮できない蛇は滅びる」のだ。
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