top of page

新着情報

「足るを知る」を考える一年

  • 執筆者の写真: Akihiro Goto
    Akihiro Goto
  • 2023年12月29日
  • 読了時間: 5分

2023年が終わろうとしている。今年は幾つかの新しいことに挑戦し、全力投球で駆け抜けた一年であった。そんな中で、一番考えさせられたのは「足るを知る」という言葉である。



古代中国のことわざ「足るを知る」の由来

足るを知るは仏教の教えが由来であるとされる。仏教の経典に「知足」という言葉が出てきており、これが由来のようだ。様々な人々がそれぞれの解釈で広めていったのだが、最も有名なのは老子の考えである。


老子は、満足するということを知っている人は、貧しかったとしても精神的には豊かで幸福であると説いている。人間の欲求や欲望は際限が無くどこまでも沸いてくるため、上を求め続けるならばいつまでたっても幸せになることはできないとしていた。従って、足るを知る者が人間として本当に富むという考えである。


仏教では、身分相応の満足を知る意味としても用いられ、身分に合わない満足を目指して卑屈になるのではなく、身分相応の倹しい生活をすることを勧めるというものだ。意味は殆ど同じであるが、微妙に解釈が異なるところが面白い。


「足るを知る」ことを益々難しくさせている現代社会

昔は、自分の所属する社会はごく小さなものであり、他の社会を垣間見る機会はなかったため、日常生活で味わう以上の欲求や欲望を持つことすらなかった。過去における階級制度も、自らの階級以外の人々の生活を知る由もなかったため、自分より裕福な人々の生活を羨むことも少なかっただろうと言える。例えば、農民は、貴族が宮殿の中でどんな裕福で豪華な生活をしているかなど想像すらできなかった。


ところが、現代は全く違う。特に影響を与えているのが、SNSの台頭だ。テレビのようなマスメディアの登場も相当な社会変化であったが、それでも、一般市民とは異なる世界に生きている著名人、有名人はブラウン管(古い!)の向こうの存在であり、自分たちとは違うという意識があった。しかし彼らがSNSを利用して普段の日常生活に関わる情報を発信するようになると、彼らとの距離感はぐっと縮まり、今までよりも身近な存在に感じられるようになったのではないだろうか。


そして人々には、彼らを今まで以上に羨む感情が芽生え、これが、彼らと同じような経験をしたい、同じようなモノを手に入れたいという欲求へ発展していく。「足るを知る」ことができなくなっていくのだ。まさしく情報過多な現代の弊害である。

「足るを知る」の全く別の解釈

ここまでの説明から、足るを知ることは、身分相応の満足を知って幸福を感じることである、というのが定説であるが、ちょっと異なる解釈があると思う。これは、私自身の考えというより、複数の人達から聞いた考えに共感した内容なのであるが、「足るを知る、とは限界を知るということ(自分がいる世界をきちんと理解するということ)。限界を知らなければ、次の世界へ行けない。だから、足るを知るにまで到達しない、中途半端なやり方では人は成長できない」という解釈である。


昔の思想において「足るを知る」をこう解釈した事例は見つけられないので、これは「足るを知る」ということわざの勝手な引用ということになるのだが、私自身は、妙に納得させられるところがある。どこが限界(「足る」の到達点)なのかを知ることは、自分の能力や今生きている世界の境界線を知る上で重要である。そしてこの境界線に立たなければ、その先(次)に広がる新しい世界を見つけることはできないのだ。


今年、ある大先輩から新しいことにチャレンジするご縁をもらい、その方の期待に応えられるように、私なりに一年間、全力でチャレンジしてきたが、まさに、「今のステージの足るを知ると、次のステージが見えてくる」という、新しい扉を1つずつ開けていくような感覚を味わうことができた。

満足した豚であるよりも、満足しない人間であるほうがましである。

話がどんどん脱線することを許してほしい。これは、19世紀のイギリスの経済学者および社会思想家であるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)が、功利主義の解釈を巡って唱えた比喩である。

功利主義が何か、というテーマはここでは省略するとして、この文章の「満足した豚」は本能的な満足を追い求める人間であり、彼らは本能的な満足を得られればそれでよしと考えてしまう。一方、「満足しない人間」とは、本能だけではなく知的好奇心、探求心が旺盛な人間であり、彼らは精神的により高い価値を得たいという欲求から、いつまでも満足できない、としている。


私はこの思想が、前述の「足るを知る」の別の解釈と重なって思えて仕方がない。

満足しないことと、欲求を抑えられないことは違う

老子は、人間の誰もがもつ煩悩を憂い、人々が煩悩によって身を亡ぼすことをいかにすれば回避できるのか、それを考え抜いた結論の1つが「足るを知る」であったのかも知れない。しかし、老子が人々に本当に求めていたのは、自らの欲求を節度をもって自己コントロールできるだけの賢明さであったのだと思う。


人間にはコンプレックス(劣等感)という感情が存在するが(全くない人もいるかも知れないが)、私は、コンプレックスは必要悪だと思っている。コンプレックスに押し潰されたり、ネガティブな感情に支配されてはいけないが、コンプレックスがあるからこそ、人は現状に満足せず、より高みを目指したり、目標へ向かって努力するのだと思っている。私自身も、実に様々なコンプレックスを持っていたし、今でも色々と抱えている。ただ、過去を振り返った時に、このコンプレックスのおかげで自分が努力し成長できたと思えることは少なくないのだ。


だから私は、満足することが大切、という「足るを知る」の元来の意味には、少し違和感を感じてしまうのかも知れない。満足してしまったら、幸福感を得られるかも知れないが、それ以上の成長はもう望めなくなってしまう。私は「満足した豚」にはなりたくないのだ。

「足るを知る」から、次の扉が開く生き方

足るを知るのは、今の自分の世界(ステージ)のゴールを知ることである。そのゴールは、次の世界(ステージ)のスタート地点である。足るを知る前に、中途半端に終わらせたり、元へ引き返していては、次の世界は永遠に見えてこない。欲求に惑わされることなく、ただ、自らの精神的な好奇心と成長を目指して、次の扉を開け続けていくような生き方をしたいものだ。


そんなことを考えさせられた一年であった。









 
 
 

Comments


© 2025 MixturePlus All Rights Reserved

  • Black Facebook Icon
  • Black LinkedIn Icon
bottom of page